ひとつさよなら

 夕方の日が伸びる時間が早くなったね、もう春だよね、とコートで身体を膨らませた小さな女の子達が話しながら通り過ぎていく。
 辰実は砂埃を被った学ランの上着を拾い上げて、ばさばさと土を払いながらその話を聞いていた。誘われたように空を見上げると、五時近くだというのに確かにまだ明るい。つい先月までは、もう真っ暗だったはずだった。いつそうなったのか、小さい頃から、辰実にとって季節の移り変わりというのは人生における一番の疑問だ。
春から夏、夏から秋、秋から冬、冬から春。明確な境界線がそこにあるはずもないのに、人は「夏になったな」とか、「冬も終わりだな」などと言ったりすることが、不思議で仕方なかった。今だってそうだ。女子校生達は空を見上げただけで、夕日の長短が分かるらしい。辰実にしてみれば、言われて初めて分かるような事柄だ。理科の授業で学ぶ仕組み以上に、体感するべきものを辰実は得られていない。
 かつて、みんなどうして分かるの? と母に訊いた事がある。まだ幼稚園ぐらいの時だろう。桜の花びらが舞う中、手を繋いだ母親を見上げて質問をしたのだ。「どうして、みんなは桜が咲いただけで、春ってわかったの?」と。すると辰実の母親はそれこそ不思議そうな顔をして、「あんたには分からないの?」と返した。
 辰実はそれ以来、人にどうして分かるんだ、と訊いたことはない。
 冷たい風に首をすくめると、ぴりり、と顔に痛みが走った。それは唇のあたりから来たものだったようで、触ると指先に薄っすらと血が付く。切ったと知ったのは舌先でその血を転がしたからだった。
 知らず、舌打ちが零れて馬鹿馬鹿しくなる。絡んでくる連中はいつだって同じような顔つきをしていて、辰実は正直、どいつがどいつだかもう覚えてもいない。好きで喧嘩慣れしたわけではなかったが、だからと言って簡単に転がされるつもりも辰実にはなかった。」
 辰実は最後にカバンを拾い上げた。兄のお下がりのスポーツバッグはよれよれだったが、通学するに不便と感じたことはなかった。
 すると、カバンの外ポケットからするりと携帯電話が落ちる。
 かしゃーん、かんかんかん。
 転がった携帯電話は、砂の上をスライディングするように滑って、こつん、と音を立てて止まった。携帯電話がぶつかった先には、黒いスニーカーがあった。
 辰実は嫌な顔をする。
『アロー、アロー、聞えますか』
か、か、か……。
 辰実が黒いスニーカーから視線を上げると、そこにはよく知った男の姿があった。
 にやにやした顔つき、濡れ羽色の真っ黒い髪、大人びた表情の真ん中に、ちょっとだけ灰色に反射して見える時があるアーモンド型の瞳が乗っている。全身黒尽くめの服装は温かそうだったが色味が他になく、夕方に溶け込むようにして立っていた。
 何が楽しいんだか、両手でコップを作るように形作って、口の前にあてて即席のメガホンを造ると、そいつは繰り返して言った。
「アロー、アロー。聞えますかタツミ。またやったんだー?」
「……あんたに用はねーぞ」
 唇を切った辰実を見て、男はわざとらしく首をくいっと曲げた。辰実は溜め息をつくと、自分より高い位置から見下ろしてくるそいつを見上げて返す。
 男のにやついた笑いはいつも通りだし、喋り方もいつも通りだ。彼はいつも唐突に、辰実の前に姿を見せる。大抵早朝か夕方のどちらかで、必ず辰実が一人の時に現れた。辰実は今しがた、自分に絡んできた学校の連中とのやり取りも見られていたのかと思うと気が重たくなった。
 だが男はそんな事を微塵も気に留めていないのか、自分の足元に転がった携帯電話を、ひょいと取り上げて何故だか楽しそうに笑った。目の前で鑑定でもするように、古いガラパゴス携帯をくるくると回す。傷が沢山付いた表面を見て、ぱかっと開くと同時に明るく光った液晶画面の色合いで、またにんまりと口を三日月形にする。
「……返せよ」
「返す、返すって。いーなーア、俺も携帯ほしーなあ」
「買えよ」
「タツミのけーたい、くれよ」
 男はそう言いながら、辰実の肩に腕を凭れてきた。辰実はわざと大げさに溜め息をついて歩き出す。男は凭れたまま、ひょいひょいと足取りも軽く辰実についてくる。
「携帯いらねーの?」
「見てんだろ。要らなくなったら返せ」
「タツミやっさしー。あ、なになにこのストラップ、キレーじゃん」
 この男との会話は大体がぶつ切れ状態で、長く続いた例は無い。
ほとんどが男の方から話題を振ってきて、辰実はそれに乗っかって首を縦に振るか横に振るかの違いしかなかったが、すぐに百八十度違う方向の話題へ切り替わる事もしばしばあった。まともに聞いているだけ疲れる会話を、この男は選んでいるのだろう。だから真面目に返す必要は全く無かった。
辰実はそんな無駄なやり取りを気に入っている。億劫さはあれど、居心地の悪さは感じなかった。
「ゲーセンで取った」
「へえ、ゲーセン! 行ってみたいけどあそこ五月蝿いよな」
「あんたよりは静かだって」
「このストラップほしーい」
 男が示したストラップは、辰実の携帯電話についている唯一の飾り物だった。ご当地キャラクターの御守りがモチーフになっているアクセサリーで、裏面にはラインストーンで青の色味が付けられている。それが街灯の下で揺れると、きらきら光って見える。
男にはその色合いが良かったのだろう、しきりに指先で突くようにストラップをもてあそぶ。既に携帯電話そのものへの興味はない様子だった。
 辰実は男の手から携帯電話を取り上げると、ストラップの紐を緩めた。
「あーあータツミー。もう終わりですか?」
「待ってろよ」
 根付のそれは繋いだ部分が少し固くなっていたけれど、爪先で引っかくように動かすと後はすぐに外れた。そうして、街灯の下で男の目の前にぬっと突き出す。男は例のにんやり笑いを、ぱっと驚いたものに変えて首を傾いだ。
「なに?」
「やるよ」
「くれんの?」
「やるよ」
「ほんと、マジか! やったあ!」
 男は手のひらにすっぽりはいった小さなストラップを光に透かして、心底嬉しそうに言った。辰実の肩から腕を放し、意識を安っぽい青色に向ける。辰実の一つか二つは上のように見える風貌のくせに、こういったところは随分子供っぽい。変なところで世慣れているような、そうでもないような、どっちつかずの印象を受ける。
 この男の名前を、辰実は知らない。ある日突然現れて、しかし辰実のことは知っていた。
 それが可笑しいと思ったことはない。ああ、こいつも知ってるのか、と感じただけで、ただ辰実は相手の名前を自ら尋ねてみようとは思えなかった。
黒い姿の男は短い季節を変わらず辰実の近くで過ごす。朝と夕方、二回に分けて顔を見せる風貌が太陽の光に透けてなおも黒く光ることを、男自身は知っているのだろうか。安っぽいストラップよりも、空気や季節の移り変わりよりも、そんな些細な現実の方が辰実にとってはリアルだった。
「なあタツミー」
「なんだよ」
「俺、ちょっと場所を変えようと思う」
 男は辰実がやったストラップの角を口にくわえて、がり、と噛んだ。プラスチックが軋む音がする。辰実は立ち止まって男のほうを振り向くと、にやついた笑いが逆光で弾けた。ドップラー現象のように、男の声が耳の中で反響する。
か、か、か……。
「どのへん」
「隣の市にしようかって、このへん最近猫が増えてウットウシーんだよ、タツミは?」
「俺は変わんない」
「じゃ、次の木曜日はサヨナラだ。隣の市、木曜に朝市なんだ」
「……行く宛ては」
「寒くない場所」
 辰実はそうか、と頷いて男に手を伸ばした。差し出された手を見つめ、男は首を傾ぐ。
「なに?」
「サヨナラだろ」
「うん、サヨナラだ」
 男は辰実が出した手に向かって、自分の手をぽん、と触れ合わせた。さらりとした感触が撫でていく。黒い袖から伸びた黒い指先、太陽が沈むと同時にそれは闇に溶けた。
 もうすっかり辺りは暗い。
 車のクラクションが背後から忍び寄って、パパっと鳴ったと思ったら男の姿はいなくなっていた。辰実は空を仰ぐ。薄い紫と濃い紫の断面に、黒い影が吸い込まれていった気がした。



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「相棒」というお題に対して書いたショートですが、見事に「相棒」ってなんだよ状態。
そのうちリベンジ……できたらいいな。