クローズマイハート

 その日は、なんでもない日だった。
 いつものように起きて、いつものように制服を着て、いつものようにご飯を食べて、そして気づいた。なんでもない日だけど、ああ、とうとうこの日が来ちゃったかあ、って。
 ゴールデンウィークが終わると同時に、どっとした疲れが一気に押し寄せた。みんなで、これはもう絶対五月病だよね、ウツだウツだ! とだるくはしゃぐ。それは五月が終わっても続いて、もう七月に入ろうかと言うのに、まだウツだウツだ! とはしゃぐ。
 教室の隅、昼休みの真ん中に机を四つぐらい寄せて、中央にポッキーとかチップスターを広げて喋る。午後からは数学と日本史が立て続けに入っていて、なんていうかもうだるい以外の何でもなかった。おまけに眠気ばかりがやってくる。文系のこのクラスじゃ、あたしを含めてみんな文句ばっかり言っていた。
「ちょっとさあー林も考えろっつうかあーマジやばくね」
「あー分かるマジやば。もーマジ寒すぎ。ギャグとか馬鹿じゃんって思うよね」
「思う思う。ね、キョーコもそー思うでしょ」
「ん、あーそーだね」
 あたしは適当に相槌を打った。だるい。だるい。だるい。
 午後の会話、お弁当の後のなんでもない、どうでもいい会話の応酬。「ヤバイ」と「マジ」を沢山使っておけば、乗っかることが出来るおしゃべりスズメ。興味があるのは同年代の男の子と、彼氏のこと、イケメンの芸能人と、アイポッドに入ってる曲と、明日のテストと、ちょっとだけ受験のこと。特に知識はいらなくて、少し話題が続けばまたすぐ他の話題に移るのが日常。あたしの友達は、大体こんな感じ。どこにでもいる、普通の子たち。普通の高校生で、あたしは普通の高校生だから、数学も日本史もだるくて、どうでもいい世間の話題も、興味も、頭がからっぽな友達も、時々だるい。
「あー……あたし、ちょっとトイレってくるー」
「マジでー早くおいでよ、もう終わるよ昼休み」
「ヤバイねーすぐ帰る。ごめん、机あたしのも戻しといてー」
「オッケー」
 ハンカチだけ持って教室を出た。向かう先はトイレじゃなくて、渡り廊下を渡った先の、特別棟の三階にある図書室。昼休みが終わる手前なら、まだ鍵は開いてるはずだった。
 あたしは小走りに急ぐ。急ぐ。急ぐ。図書室から出てくる、いかにも本を読みます、っていう感じの生徒が何人か出て行った。あたしは入れ替わりで、図書室に入ると委員に見つからないようにして奥に行った。
 天井まで届く、狭い本棚と本棚の間に隠れるようにして息を止める。図書委員は室内の確認をするまでもなく「午後めんどくせー」とか「ねむい」とか話をしながら、電気を消して出て行った。
 完全に人の気配がなくなってから、あたしは止めていた息を吹き返す。そして、本棚のもう少し奥、どん詰まりの、辞書ばっかり置いてある暗くてかび臭い場所を振り返った。
 ぽつん、と人影。
 夏服になったばかりの、白い半袖のシャツから伸びる、男の子の腕。
「……滝口」
 そっと人影の名前を呼んでみる。
 滝口は床に直接座り込んでて、小さな窓から差し込むわずかな光で分厚い本を読んでいた。あたしにはあんな分厚いものは読めない。滝口はしばらく顔も上げず、黙々と本に目を落としていたけれど、ページが一度だけ捲られると栞を挟んであたしを見上げて訊いてきた。
「サボり?」
「うん、ちょっとだるくなっちゃって。……床、冷たくない?」
「冷たくてきもちーよ。結城さんも座れば」
「……うん」
 滝口の勧めにしたがって、人一人分空いた場所にあたしも直接座ってみる。スカートからはみ出た足が、床にあたると冷たかった。なるほど、これはちょっと気持ちがいいかもしれない。足あとの汚さに目をつむればだけど。あたしはちょっと迷って、何度か足を組みなおしたりした後、結局体育座りをした。
「滝口も、サボり?」
「暑くってさ、なんかやる気ねーわーって感じ。結城さんも?」
「んー……ていうか、なんか、全部だるっていうか……」
「欝だ」
「ウツウツだよもー……。……あのさ、滝口は、教室とか、だるくない?」
 何度か会話を続けるうちに、滝口は本に集中するのを止めて脇に持っていた分厚いそれを置いた。あたしとおしゃべりしてくれるらしい。邪魔して悪かったかな、と思うけれど、あたしはけっこう滝口としゃべることが好きだから、それは黙っておく。
 滝口は、ゆっくり喋る。でも、だらだらしているんじゃなくて、静かなよく通る声で喋る。教室でも、率先して騒ぐタイプじゃなくて、だからと言って引っ込み思案、というわけでもないように見えた。自分がいる場所を、よくわきまえてるっていうか。どこに立ってれば、だるくないか、分かってる人なんだな、というのが、あたしの滝口に対する印象だった。
「だるいって?」
「だからさ、なんか……いろいろ、教室でしゃべったり、授業とか」
「そりゃだるいからこんなとこ居るんだけどさ。結城さんは、だるいからサボってんの?」
「滝口だってそうじゃないの」
「俺は涼しいから。教室、扇風機ほんと意味ないじゃん。クーラー欲しいよな」
 ゆっくり、静かな声。滝口は本棚に寄りかかって、冷たい床を撫でている。涼しそうだった。あたしは体育座りをした膝の裏が、じっとり汗をかいていて、そこが段々冷たくなってくるのを感じていた。猫背になって、息を吐き出す。
「……なんか、結城さん元気ないね。欝とかだるいとかじゃなくって、なんかあったの」
「んんー……」
 だるい。だるい。だるい。
 ひたすら、だるくて、気分が落ち込む。このまま、冷たい床の中にずるずる入っていけたらどんなにいいだろうって、へんな妄想をするくらいに、落ち込んでいる。滝口の声は、遠慮していて、温度の低い日陰みたいだった。あたしは膝を伸ばして、猫みたいに体を伸ばしながら口を開く。
「……例えば、さあ。朝起きて、それまで一緒にいた家族が急にいなくなってて、でもそれって頭のどっかでは予想出来てたことだとするじゃない」
「例えば唐突すぎるんだけど」
「いいから。そー、すると、さあ。ああ、やっぱこーいうのって起こっちゃったんだなあって、寂しいような、まいっかってどうでもいい気分なような、ちょっと複雑になったりもするじゃない。なんかね、そーいう……そーいう、分かってたんだけど、やっぱり現実になっちゃったかあ、みたいなのが、なんかすごくだるくてね」
 あたしは段々早口になっていた。愚痴ってる、後ろめたさみたいなのが、言ってしまってからやってくる。心臓がどきどきした。自分のことを誰かにしゃべるのは、どきどきする。滝口の方は見る事ができなくて、あたしは尚も続ける。
「……あたしの、おとうさんね。おとーさん……あたしの『おとーさん』は酷くだらしが無い上に、いぎたなくて、女癖が悪くて、お酒も博打も相性が悪くて、なんていうかもう最低な男の人なのよ。なんていうか、縁もゆかりもない女の子をさあ、引き取って育てようとか思った一瞬は感動だと思ったけど、なんていうか、やっぱダメな人なんだなーって……手上げられなかっただけ、マシだと思うけどさあ。でも、なんていうか、やっぱり、もー耐えられなかったよねえ……みたいなさ」
「……おじさん、出てっちゃったの?」
「多分。多分ね。……、多分だけど、出てったんだろうなあ。なんかさ、変な感じだけど、捨てられた女の気分なわけよ」
「それで、だるいの?」
「うん……だるいね」
 言ったら、それまで我慢してたのに、気持ちがぶわっとせり上がってくるのを感じた。引っ込みがつかなくなった言葉と一緒に、物凄い速さで浮遊する。あたしは俯いた。喉の奥がひきつれて、鼻水がず、っと鳴る。
「――ごめん、ぐち、った」
「いや、……ごめん」
 なんで滝口が謝るのよ、と聞きたかったけれど、これ以上しゃべると泣いているのがばれそうで、止めた。
 滝口は何も言わなかった。あたしも、何も言わなかった。
 五限目が終わって、チャイムが鳴って、散々目が腫れるまで泣いたのが引っ込むまで、あたしも滝口も立ち上がらなかった。



***
妙にだるいとき