世界のなかで一つか二つ

 手を伸ばして手に入るものが、あったとしよう。
 姫野は自分の手のひらを広げて、その窪んだ真ん中を見つめた。
 平均的な高校生の手だ。しかしそれは小さい頃から、それこそ物心つくころにはボールを触っていたものだった。手のひらの皮は厚く、骨ばった見た目以上に固くそして不器用だ。
 ドッ、ドッ、ドッ、とボールが体育館の床を叩く音、跳ね上がった赤茶のバスケットボールが転がってきて、姫野の背に当たった。姫野はそれを片手で拾い上げると、一度リバウンドさせて体育館の中へ返す。
 中村がそれを受け取った。ひらりと片手を持ち上げられる。挨拶代わりのアイコンタクトは、まるで試合中の合図のようだった。
 姫野もまた、同じように片手をあげて返す。そして体育館の扉に、背中を預けた。
 姫野はバスケットをやるためにこの高校を選んだと言ってもいい。
 インターハイへ幾度となく出場している名門校で、バスケ部専用の体育館を学校から与えられているほどだ。無論部員の数もそれなりに多いし、部活における練習の厳しさは目を見張るものがあるとして有名だった。だが姫野はスポーツ特待で入学だったし、例の厳しい練習にも、上級生からのしごきにもすんなりと入り込んでいった。
 まるでそこが、最初から姫野の求めていた場所だったように、彼はすぐ輪の中に打ち解け、居場所を作り、文字通り二年にあがる頃にはポジションを獲得した。的確なボール運びと正確なシュート、味方のスペースを作り、敵中へのカットインも視野に入れて動く。まさに理想的シューティングガードだ。上級生たちも姫野のことを生意気だと思うより先に、すごい奴だと口々に言って可愛がった。これなら次のインターハイではトップを狙えると、誰もが本気で期待し、信じるほどにチームもまとまっていた。
 姫野はバスケットが好きだったのだ。本気で。
 たとえばこの手のひらの中に掴めるものが、あらかじめ運命とかそういうものでたった一つだと決められていたとしたならば、姫野は迷わずバスケットを選んだだろう。
 あらゆる事柄や、常識や、世界なんてものを置いて、バスケットを選び取ったはずだった。姫野自身もまた、自分の手に掴み置くものはバスケットだと思っていた。本気でバスケットが好きだし、本気だと口に出してしまえるほど、確立していた。
 逆に言えば、それしか姫野にはなかったのだ。手のひらに置けるものがたった一つであるなら、それで良かった。バスケットだけを見つめて、バスケットだけをして、この先もきっとやっていけただろう。
 なのに、違った。
 違ったから、悩んで、誰にも知られないように、バスケットを辞めた。
「おい、姫」
「ん」
 中村が先ほどのボールを抱えたまま、姫野の後ろから声をかけた。汗で額にはりついた前髪をかきあげながら、深く呼吸を吐き出してしゃがみ込む。
 姫野が座る場所は、建物の間を抜けてくるすきま風に常にさらされているところだった。冬場は堪えるが、他の季節はことバスケ部の面々が憩う場所となる。そこがいつからか、姫野の特等席になったのは記憶に新しい。
 姫野は中村が何か言うのを待った。
「……中、入っても平気だと思うけど」
「だって俺辞めたじゃん、バスケ」
 部を辞めた人間が、バスケ部の体育館にいることなどはあり得ない。辞めてしまえばその時点で部外者だ。ただの見学だと言えば聞こえはいいが、姫野はそのような立場にいない。これは単なる甘えで、元部員で成績も良かったからという理由だけで、他の部員たちが黙認してくれてるに過ぎない。その沈黙の中には、いずれ戻ってきてくれるだろう、という期待があることも、姫野は知っていた。
 だが中村は決して、姫野に強制しなかった。帰れとも、他の連中のように再びバスケットをやれとも言わない。
 バスケ部を辞めた姫野が毎日この場所へ足を運んでも、たとえそこで何かをするでもなく、ただぼんやりとボールの音だけを聞くだけだったとしても、中村はなにも言わなかった。そのかわり、常に姫野を疑問の目で見つめる。なぜ辞めてしまったのか。どうして、あんなに好きだった、情熱を傾けていたバスケットを手放したのか。
 中村は口にしない代わり、その目で強く訴えていたが姫野はいつも見なかった振りをする。言葉に出さなければ、すべてはなかったことにできる。そうだと姫野は思っていた。
 中村は「そっか」と呟くと、挨拶を告げて中へ戻っていった。ミニゲームを始めるためにゼッケンが配られる。姫野はそれを遠目に見つめながら、流れ込む風に身をゆだねた。
 世界中にあるあらゆるものの中で、たった一つしか手に入らないとしたら――いや、たったひとつしか手に入らないのだ。姫野のような人間には、大切なものを一つ二つと拾うことは到底出来なかった。いつだって、一つしか選べない。それ以上は自分が抱えきれずに、結局どちらも駄目にすることしか出来ないのだ。
 だから、と姫野はゲームの始まった館内をみた。
 中村の姿は探さなくてもすぐに見つかる。背が高く、力もある中村はセンター向きで、ゴールを安心して任せられる奴だった。
 自分が手に置きたかったのは、世界の真ん中にありたかったたった一つはバスケットじゃなかったのだ。
 それじゃないのだと、目の当たりにされて、打ちのめされて、だからバスケットを辞めた。――中村を選ぶことすらも出来ずに、けれど気持ちはバスケット以上に、彼へ傾いた。その時点で、姫野はバスケットに見放された。
 姫野には一つしか選べない。
 選べなくて、ただ姫野は二つにすがるように、扉に背を預けて音を聞く。せめてもの悪あがきのようだった。心地のいいボールのはじく音。
 もう二度と、自分はあれを触れないし、中村と同じコートに立つことも出来ないのだ。そう思うと、姫野はここを離れずにいられなかった。



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ついったの方でいただいたお題を書いてみました。姫野くんです。