青少年のささやかな悩み

「なあ、俺今、十万円持ってるんだ」
 クラスで話したことのない奴が声を掛けてきた。あまり目立つようなタイプじゃなく、頭は上から数えた方が早かったと思うけど、率先して前に立つような奴でもなかったはずだ。名前が出てこなくて、唐突にいわれた言葉の意味も分かりかねて俺は首をひねった。
「えっと、なに?」
「うん。あのさ、この十万で、俺に買われてくれない?」
 そいつは俺が名前を知らないことを最初から分かっていたのか、秋吉と名乗って、財布を取りだした。まさかそんなと笑いながら中身を覗くと、確かに滅多に見ない諭吉さんが何枚も入って見えた。間違っても偽札じゃないだろう。だいたい、俺は偽札だったとしてもそれを判断することなんて出来ないけれど。
 秋吉は無造作にその十万を出して俺に向けた。袋とかに入れてなくてごめん、なんて付け足しながら。
 俺は突然向けられた大金を受け取る度胸なんてなく、けれどそれとはまったく別の部分で、秋吉の言ったことに興味を覚えた。人を買う、なんてことの意味が分かったわけじゃない。時代劇だとかドラマの、後ろ暗い、それでいてちょっとしたスリルのある楽しみが詰まってる、そんな響きがどきどきしただけだ。
 夕方の昇降口に、俺たちのほか人の姿はなくて、けれど見回りの先生がきたらこいつはどう説明する気なんだろう、と思った。これまで何の接点もなかった俺たちが、大金を挟んで向き合っている。
 俺は結局金を受け取らず、ただ「わかった」と返事した。受け取らなかったのは、やっぱりその見たこともない額を素面で貰えるほど度胸がなかったからだ。秋山は金を受け取らなかったことを少し渋ったようだったけれど、俺が了解したことで納得は出来たみたいだった。
 秋吉は金を仕舞い直すと、それじゃあ行こうと俺を誘う。時計の針は午後五時過ぎ、冬に近くなった最近じゃもう外は真っ暗で、古い街灯の明かりが眩しい。ジャンバーとマフラーはしていたけれど、服の隙間を抜けていく風が冷たい。
 特に会話もないまま俺と秋吉は駅に向かった。俺は本当ならここでバスに乗るはずだったけれど、秋吉は自分と俺の分の切符を買って、俺に寄越した。行き先は知らない。ただ、高い料金を支払ったということは分かった。こうして俺は、秋吉に買われた。
 行き先は快速電車で行ける一番遠い場所。
 最初はサラリーマンや俺たちみたいな学生の姿もたくさんいたけれど、駅をすぎていくにつれてだんだん人気がなくなっていった。
 俺は秋吉をよく知らないし、秋吉だって俺をよく知らないはずだけれど、俺たちは並んで座って、少し眠った。途中で買ったホットの缶コーヒーを手に握りしめる。秋吉は黄色い缶のそれを飲んで「甘過ぎ」と言って笑った。
 田舎町の風景が通り過ぎて、それも夜の暗さに見えなくなって、ようやく終点に到着して俺たちはホームへ降りた。潮風のにおいと、小さな音がする。
「行こう」
 秋吉は行って、俺に手を向けた。それから、ためらうように視線を落として言った。
「手、繋いでもいいかな」
「……いいけど」
「ありがと」
 俺は少し躊躇った後に、秋吉の手を取った。まあ、俺は秋吉に買われたわけだし。高校生にもなって、しかも男と手を繋いで歩くなんてどういうものかと思ったけれど、幸い人の姿はなかった。
 秋吉の手は冷たくて、あまり握り心地はよくなかった。さらさらして、固い。俺の手が逆にべたついてないか、ちょっと心配だった。繋いだ手のひらがぎこちなくて、震えそうになる。腕から下げた先を、どんな風にして揺らしていればいいかも、よく分からない。だって、女の子とでも手なんて滅多に繋がない。
 俺たちは並んで歩いたけれど、話すことは思いつかなかった。秋吉は時々景色を見渡しながら、駅の線路沿いを歩いて海岸に近い遊歩道に出る。俺も手に引っ張られて、一緒に同じ方向へ出た。海の音が近い。町中のような店やビルなんてものはなく、このあたりには民家ばかりが目についた。どこの家にも明かりがついてて、夕飯の気配がした。
「降りてみよ」
 秋吉は俺の手を引いて、遊歩道から浜辺に続いてる階段を降りた。砂浜を踏む感触がして、秋吉が楽しそうに奇声をあげる。ぱっと、手が離れた。
「ちょー開放的、な」
 海沿いの真っ白いライトに照らされながら、秋吉はさざ波に近づいていった。鞄をしょったまま、どたどたと走る後ろ姿がなんだか犬みたいだった。少女マンガみたいな光景だ。俺は追いかけるわけじゃないし、生憎とこの状況にときめいたりするほど、ロマンチックな思考回路をしているわけじゃない。それでも、少女マンガだと思うくらいには、いつもと違った夜の過ごし方だ。
 ばしゃばしゃと水に入っていく音がして、近づいていくと秋吉が濡れていると分かった。砂の上に鞄が投げ出されていて、なんとなく俺は「あーあ」と口に出した。
「来る?」
「行かねーよ。寒いし」
「あっそーか、どーしよ。やばいかな」
「風邪引くんじゃん」
 俺は空を見上げるみたいにして、さっきまで歩いていた遊歩道を振り返った。探せばないこともないだろうけれど、ホテルとか民宿なんてものが見つかるとは思えなかった。あるとしたら、ラブホとかそういうところぐらいだろう。それでなくても、高校生の男子二人組が泊まらせてもらえるのかは甚だ疑問だった。泊まったこともないから分からない。
 けれど秋吉は、そういうこともなにも考えて無い様子だった。
「来いって」
「は、」
 どっぷん、という音がした。
 腕を引っ張られて、背中からタックルされて、俺は浅瀬に頭からつっこんだ。すぐに起きあがったけれど、目とか口から入った海水が辛い。秋吉の笑う声がする。それに飲み込まれる海の音。
 真っ暗になって、さんざん濡れて寒さに震える頃になって俺たちは海からあがった。制服なんてもう使い物にならないほどぐちゃぐちゃだ。クリーニングに出さないとな、と俺が文句を言うと、そうだな、と秋吉は答えた。俺は秋吉に買われたから、つまり俺のクリーニング代も出してくれるということなのだろう。
 それから俺たちは少し歩いて見つけたコンビニで食べる物を買った。ホットの缶コーヒーをまた買って、それを飲みながら海沿いの端で見つけたラブホに入る。ラブホは無人で、ただ入り口のところで一万円札を入れるだけで済んだ。天井近くにあった監視カメラは見なかったことにする。
 ピンク色をした妙にエロチックな風呂に交代で入って、同じバスローブを着てベッドに寝っこがった。ベッドは大きくてふかふかで、俺たちみたいな成長期の高校生二人が寝ても不便にならない感じだった。物珍しくて、俺は近くにあったコンドームやらエロいDVDのリストなんかを見ていたけれど、秋吉は買ってきた食事を済ませて早いうちにベッドにもぐった。
 俺も残り物を頂いてから、秋吉の隣にもぐり込む。
 すっかり体は温まっていて、腹も満たされて眠気が酷かった。秋吉と顔を見合わせると、秋吉は少しだけ笑った。そして、顔の前に手を持ってくる。
「……なあ、手、繋いでもいいかな」
「ん」
 秋吉の手が、俺の頬に触る。俺はそれを取って、手を握った。最初に触った時よりずっと温かくて、気持ちが良かった。震えもしてないし、どきどきもしなかった。
 ああ、たぶん俺は緊張してたんだな、と眠気で満たされる頭の隅で思う。
「……あのさ」
「なに」
「あの十万、なんだったの」
 目を閉じて秋吉に聞いた。答えが聞きたかったわけじゃないし、秋吉も答えないだろうなと俺は思った。羽毛のあったかい布団と、寝心地のいいベッドで、ラブホってなかなかいいじゃないかと、見当違いなところへ意識が飛んでいく。ろくに動いてもないんだ。潮風のにおいが、体を重くしている。
「予備校の授業料。……おやすみ、奥田」
 笑いながら言った秋吉のささやき声は不鮮明で、優しく響いた。なんて言ったのか理解できないまま、俺は体の欲求に任せて眠りに落ちる。これが、秋吉に買われた夜だった。



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予備校って十万くらいで行けたっけ……