澱む午後四時

「姫ー。……おい姫野、お前また食ってんのか」
「ん?」
 だん、だん、だん、と体育館にバスケットボールの跳ねる音。リズム良く弾き出されるドリブルが、不意に途切れたと思ったら、キュッと摩擦がこすれたすぐ後、ゴールネットを叩く音が聞こえた。ばすん、とボールが落ちる。胃の中に響く、気持ちいい感触。
 それが何度となく繰り返される。
 互いを鼓舞するために、腹の奥から出される声はいつだって「っしゃー」とか「おー」とか、練習時間が延びるにつれて不鮮明になってくるのだ。でも多分、それが無心になって練習をしているって証拠だろう。毎日がそうして過ぎていく。疑いもしない。疑うわけもない。これにすべてをかけてる学校生活だ。三年間なんて、あっと言う間に過ぎてしまうって分かってるからこそ、賭けられる全部。
 姫野はバスケ部だった。だった、というのは過去形、つまり姫野は元バスケ部員だった、のだ。つい先月まで。それが急に、顧問宛に退部届けを提出し、その日のその足で部室に顔を出すやいなや「バスケ辞めたから、じゃ」と言った。
 バスケを辞めた理由はよく知らない。でも自分が見る限り、姫野はバスケが好きだったんだろうし、今でも好きなんじゃないかと、思う。
 姫野は放課後の練習時間になると、いつも体育館の外へ通じる扉の外で座っている。赤錆が目立つその扉に寄りかかって、白いシャツが汚れるのも構わずに、練習が終わるまでそこにいるのだ。読書をするでも、勉強をするでも、練習を見るでもない。ただ背中を扉に預けて、ぼうっとしてる。
 最初の頃はバスケ部員の何人かが冷やかしたり、逆に中に入ればと誘ったりしてたけれど、姫野はそれを全部同じ理由で蹴った。理由は二つ。「飴食ってるからさ」と、「バスケ辞めたから」だ。
 俺は姫野の態度がよく分からない。
「そんなに好きだったっけ?」
「んーいや、なんつーか、癖みたいな? 別に好きじゃないんだけど」
 ジャリジャリと細かい粒の音がした。
 姫野は飴を噛んで食べる。舐めるのではなく、口に入れた先から飴玉を奥歯でかみ砕いて食べるのだ。いつからかは知らないが、気づいた時にはもうそういう食べ方をしていて、いっこうに止める気配はない。歯が痛くないんだろうかとか、飴の食い方としてそもそもどうだ、と考える。確かに、姫野のこれは癖だろう。
 バスケを辞めてから、飴を食べてる姿を前よりもよく見るようになった。それこそ四六時中、下手すると授業中でもこっそりと食べている。がり、と喉の近くで響く音。砕けきらないままの細かい粒を胃に流し込む。
 姫野は額に浮かぶ汗にも構わず、まぶしそうに午後の日差しを受けながら、じっと壁に耳を押しつける。目をつむって、ボールの跳ねる音を聞いているみたいに見えた。
 俺は持っていたボールを間に挟んだ形で、姫野の隣に座った。
「……姫さ、戻らねえの、バスケ」
「辞めただろ俺。辞めた奴がどーして戻んの」
 じゃあ、どうして毎日、ここでこうやっているのか。
 本当はバスケがしたくて、音を聞いていたくて、ボールに触りたくて、ここにいるんじゃないのか。
「毎日、来んじゃん体育館。やりたきゃやりゃいい」
「別にそいうんじゃねーって。ここ涼しいんだ、風通るし日陰になるし」
 さらっとした笑顔と、落ち着いた話し方に嘘偽りはないように聞こえた。はぐらかされているようにも聞こえるけど、姫野はそれを普通にそれを感じさせないだけの穏やかさがある。
 俺はどうして辞めたのかとか、本当はバスケやりたいんだろとか、そういう姫野の事情よりもっと深いとこに触れるような質問が出来なかった。シュートをする時みたいに、踏み込むことだって出来やしない。なのに、戻ってくればいいとは思う。勝手に、姫野の考えが分からないのをいいことに、俺は勝手にそう思う。
 戻ってくればいい。
 ボールに触ればいい。
 姫野のシュートはすごくうまかった。足も速いからガードには最適で、いつもコートの上で先頭切ってた。俺の目の前には、そういう姫野しかいない。今だってそうだ。こんな風に座り込んで、ひたすら飴をかみ砕いてるだけの奴なんて知らない。
「バスケがイヤになったんじゃないんだ」
 唐突に姫野の声が響いた。
 俺は顔をあげて、姫野の横顔を見る。姫野は新しく飴の包みを破いて、オレンジ色したそれを口に放り込んだところだった。かつ、かつ、と歯にあたって、直に奥歯でごりっと砕ける音がした。
 蒸し暑い空気を吸い込む。
「じゃあなんで」
 俺の声は怒って聞こえたかもしれない。あたりが強くて、まるで責めているみたいだ。姫野はなにがおかしいのか、それともおかしいことが何かも分かってないからなのか、笑って首を曲げた。
 背中の向こうで、バッシュが滑って、ボールが床を叩く音がBGMみたいに流れ続けている。慣れ親しんだ場所の、慣れ親しんだ音。この音を全身に受けて、コートで走り回ることが姫野にとっての最高だったはずだから。
 けれど姫野は首を曲げたまま、声の調子を落として妙にゆっくり言った。
「それはほら、……なんていうかさあ。いろいろ、いろいろあるわけでさ……あっなあ、飴食う?」
「は? お前、言いかけてやめんのやめろよ」
 まあまあ、と姫野は飴の包みをちらつかせた。それ以上はなにも言わない。中途半端に途切れた言葉を、もう姫野は言う気がないみたいに見えた。もしかしたら、言いたいことなんて考えてなかったのかもしれない。俺は気持ちが沈む。
 不意に、姫野は挟んだボールをいつの間にか取り上げていて、その分の隙間を埋めるように俺に近づいていた。肩がぶつかるけど、痛くはない。人の体温の熱さが感じられて、同時に飴のにおいがした。
「姫」
 姫野の顔が近くて、近づいて、一度姫野は瞬きをした。
 じりじり、音がする。バスケをしてる音じゃなかった。蝉だろうか。それとも、コンクリートが焼ける音だろうか。俺の息づかいか、姫野の息づかいか。じりじり、と鼓膜の奥で音がした。姫野はもう一度瞬く。
「……オレンジでいいだろ。つうか、これしか持ってねーや」
 吐き出されたそれは内緒話をするみたいな、ひどく小さな声だった。呼気の動きが分かるくらい、しゃべる静かな呼吸の音と、熱気を含んだ気配がした。一言を言うのに、ものすごく体力を使ったみたいだった。
 気づいたら、姫野の顔はもう近くなかった。
 姫野は言い終わると、自分が食べているのと同じ飴の包みを俺に手渡した。すきま風が通って、赤茶色のバスケットボールを膝のあたりに返される。俺はあわてて、それが転がらないように手の中に収める。飴も一緒に。
「んじゃ、俺今日帰るわーけっこう日も落ちたし」
「姫」
「なに」
 立ち上がってさっさと鞄を肩に引っかけた姫野を、俺は引き留める。見上げた顔が逆光になって、ぼんやりとしか表情が分からない。
 鞄には「めざせ全勝」という文字が入ってる。四角い白のスポーツバッグは、バスケ部員全員が同じものを背負っていて、もちろん姫野もそれを持っていた。今も、持っている。薄汚れた金の文字。全勝し続けていたけれど、姫野が抜けてからあっさり負けた。
 姫野は今、ここにいない。
 それが全部だ。
「……なんでもない」
「おう。じゃ、お疲れー頑張れよ」
 姫野は手を振った。そうして振り返りもせずに、まだ高い日差しの暑い光を浴びながら帰ってった。
 俺は飴とバスケットボールを抱えて、体育館に戻る。なぜだか急に、もう姫野は本当に、ここに来ない気がした。




飴がメインの話だったはずですがバスケの話になった