早く降りろ!

 彼女のことは、いつも朝乗る電車で見ていた。午前六時三十五分、二両目の端、決まって角の席に座っている。彼女は大抵本を読んでいて、それは自分が読んだこともないタイトルのものばかりだった。そのタイトルを覚えておいて、あとで図書館で探してみるのが近頃の日課になった。けれど大抵、何ページか開いて中身を確認して棚へ戻してしまう。文字が小さくて、びっしり紙に埋め込まれていて、自分じゃ到底読めないと思わせるくらいの量があるからだ。
 俯いてページを早いペースでめくっていく彼女の顔を、正面から見たことはまだない。時折、ふと持ち上げた顎の角度を測って、心の中で「よし」と思うに留まっている。
 彼女の雰囲気は美人というわけではない。かと言って、ものすごく可愛い、というわけでもなかった。伺う限り、平均的な日本人で、髪も染めていないし化粧っけもなかった。背は、たぶん少し低めだ。自分と比べると、同じくらいか、もう少し小さいくらいか。
 彼女のどこに、そんなに惹かれているのかは自分でもよく分からない。もしかしたら外見は関係ないのかもしれなかったけれど、彼女の声を聞いたことも、ましてや話をしたこともない自分が彼女の内面を語るのはおかしいだろう。彼女が電車の中で、他人としゃべっているのすら見たことはないのだ。実際、彼女の人格が一体どんな人なのかもまったく分からないまま、三ヶ月が過ぎようとしている。
 自分が彼女のことで確かに分かっているのは、彼女がいつも読む本のタイトルと、午前六時三十五分の電車に乗っている、ということだけ。恋いこがれていると言うには、到底遠いような事実。
 今朝は昨日から降り続いている雨がやまなかった。しとしとと降り続く音が足下を億劫にさせて仕方がない。背負った鞄も重かったけれど、それでも電車の時間に間に合うように家を出たのは彼女が乗っていると思ったからだ。
 壁に寄りかかって、外気との差に靄をつくる電車の窓を見つめる振りをしながら、彼女のことを伺い見た。今日は厚めの文庫本を読んでいた。タイトルを読みとってもやっぱりそれは自分の知っている本ではなく、表紙の絵からだけでは内容も分からない。推理ものかもしれないし、恋愛ものかも、そう思わせるような雰囲気だけがあった。
 がたがたと振動する電車の音に、彼女の肩が揺れる。あの肩が自分の横にあって、揺れた表紙に自分にぶつかってくればいいのに、と思った。勢いあまってしまったことに、きっと彼女は小さく「すみません」と呟くだろう。それは自分の、同じ呟きと重なる。うまくいけば、きちんと顔を見ることができるかもしれない。
 だが、そこまで妄想して、頭を振った。こうやって考えるばかりで、結局自分は彼女の横にすら席を確保できたことはない。たとえ席が空いていたとしても、自らそこへ座るようなことは出来ないのだ。
 声にならないよう溜息をつく。このまま先に進むことが出来ないのは明白で、それを自分も望んでいない。出来ることなら、なんて、それすらも彼女に対してきっと失礼だ。だって、これが恋だとは思えない。けれど、恋じゃない、とも言い切れない。その立ち位置こそが、こうやって自分を留まらせる。
 彼女が降りる駅に電車が入っていく。ブレーキの音が長く続いて、滑るようにいつもの停車位置から少しずれて止まった。彼女がはっと顔を上げて、手早く本を鞄に仕舞うと立ち上がる。それとほぼ同時に、車両のドアが開いた。ぱらぱらと降りていく人々に混じって、彼女の後ろ姿を見送る。
 車両切り替えの為、三分ほど停車します、というアナウンスが流れた。目をつむって、今日の短い時間を思い返す。冷たい風が流れ込んできて、ぼんやりとした眠気がやってくる。あくびをかみ殺しながら瞼を持ち上げて、時間を確認した。もうすぐ動くだろう。何を言っているのか分からないアナウンスの後、新しく乗り込んでくる人の影に彼女の座っていた席が隠れた。
「……?」
 不意に、は、っと、気づく。
 彼女が座っていた角の席に、傘が掛かっている。一度か、二度かだけ見たことある傘。それは確かに、彼女が雨の日持っていたものだった。  急に心臓が動き出したみたいに跳ねて、あたりを伺った。もうすでに、空いていた席には知らないサラリーマン風の男が座っている。焦りが、さっと血の気を引かせたようだった。どうしよう、と声が浮かぶ。自分の声だった。口に出してしまっていたかもしれない。
 電車の発車ベルを聞く。
 それと同時に、狭い車内を駆け出すような気持ちで大股に横断して、掛かっていた傘を引っ張りあげた。迷惑そうに自分を睨みつけてくる知らない他人の視線を無視して、締まりかけたドアをぎりぎり、滑り抜けて外へ飛び出す。
 背中の真後ろで、バタンという音がした。
 きょろきょろと左右を見渡して、すぐに階段に向かって走り出す。今度は、本当に。ホームにいた高校生が振り返ったのが分かった。まだ並ぶ人が大勢いるエスカレーターが面倒で、隣の階段をやはり一気に駆けあがる。背負った鞄が背中でがたがた鳴っている。
 朝の混雑する駅の構内で、強く強く目に焼き付いている姿の断片を探すように頭を動かした。行き交う人々の早さに押されて、焦りと不安を感じる。立ち止まっている間にも、無理なんじゃないか、とまた声がした。息があがってしまうのは駆けだしたせいだけじゃない。
 それでも、彼女を捜すのは。
 サラリーマンや学制服の姿が多い中で、白いスカートを揺らす後ろ姿を目端にとらえた時、そうだと確信した。すぐさま足を踏み出して、どんどん距離を縮めていく。改札を出てしまう前に、彼女が分からなくなってしまう前に、
「っ……あの! すいません、あの!」
 何人かが振り返って、怪訝そうにこちらを見た。それは一瞬だけで、すぐに前を向いて歩いていってしまうが、群衆の中にいた彼女もまた自分を振り返った。
 彼女の方をまっすぐに見て、視線を合わす。
 そして彼女は、見知らぬ相手と視線がしっかり合ったと分かって、驚いた顔をした。「わたし?」と顔に書いてあるみたいだった。必死になって頷く。すみません、すみません、と何度もバカみたいに声が出た。
 立ち止まって、人並みを避けるように脇へ移動する彼女を自分も追いかけた。声を張り上げなくてもそれが届く近さまで来ると、胸の奥が大きく鳴った。間近にした彼女は、思っていたよりも背が小さくはなかった。
「あのっ……! あの、……! かさ、……傘……」
「えっ……あっ!」
「あの、電車に……さっき、電車に傘、忘れませんでしたか……?」
 言って、その傘を差しだした。
 彼女は一瞬間があったあと、「ああ、」と声を上げて手を差し出した。白くて細い手。長い指。指のどこにも、銀に光る輪っかなんてものは見つけられなかった。そのかわり、シンプルな茶色のバンドの腕時計が見えた。なんのブランドだろう、と思う。そんなことを思っている余裕なんて、到底あるはずもないのに。
 毎朝見ていた彼女が自分の正面にいるのに、その顔をきちんと見ることが出来ないまま、あっと言う間に傘は行き渡る。一瞬だった。まだ荒い、自分の息遣いを労るには到底足りないくらい、一瞬だった。
「ありがとう。もしかして、わざわざ」
「いえ、あの、偶然っ……ちょうど分かったんで、っていうか、降りようと思ってたっていうか、……」
「……いつも私と同じ車両に乗ってる、よね? 学校、大丈夫?」
「あっいや、学校は別に、」
 肩が上下する。息が苦しかった。はーはーと、呼吸を整えながら声をつなごうとするけれどうまくはいかない。それよりも、彼女が自分に気づいていたということを理解するのに頭が精一杯で、体の方に気持ちがまわらない。見当違いな否定を返してしまって、首を振ったあとに少しだけ後悔した。
 気づいてた、彼女が自分に、気づいていた!
 そして彼女は笑って(たぶん笑ったはずだった。そういう気配だった)、もう一度「ありがとう」と言った。それから、
「ちゃんと学校、行った方がいいよ。私みたいに後で後悔しちゃうから」
「いえっ……、?」
「あはは、でもわざわざ降りて届けてくれたのに、その言い方もないか。本当にありがとう。――それじゃあ」
軽く頭を下げて、行き交う群衆の中に戻っていく。改札を出る前に、ぼけっと突っ立ったままの自分に振り返って、もう一度頭を下げてくれた。あわてて、頭を下げ返す。
 次に改札を見た時には、もうその姿が見えなかった。
「は……」
 ひっくり返ったスカートの裾を直す。
 歩き初めてプラットホームに戻ったとき、もう朝礼が鳴るだろう時間だった。それでもよかった。
 また明日になったら、きっと彼女は同じ車両に乗ってくるだろう。そうしたら今度は、正面から彼女の顔が見れるかもしれない。三ヶ月目にして、ようやく。




そのうち書き直したいなー