「――聞こえていますか」
「聞こえてる、良好だ」
僕は夢を見ている。
今日の夢は学校だった。目の前に、慣れ親しんだ高校の校舎が見える。だが地面から空へ上っていく視界がとらえる色は明るいセピア色で、現像に失敗した写真のようだった。妙に立体感がないのに、なぜか威圧するような心持ちはする。
間違っても僕の記憶にある世界はこんな色をしていない。現に、僕自身は色彩鮮やかな普段通りの格好をしていた。オレンジ色のパーカー、少しくたびれた青いジーパン。靴は紫のスニーカーで、紐は黒。この前の服よりマシだった。この前の夢では、アニメの未来人みたいな体にフィットしたスーツだったから。
耳につけたインカムから声が聞こえる。
僕は目的もなく、目の前の校舎へ向かって歩きながらインカムの声に答えた。
「では、これから校舎へ向かってください。入り口は二カ所あります。窓と、校門です」
「もう窓の前だ。この先は?」
「そちらのルートでは、左手に女性が出現します。確率は八十九パーセント。正面に階段と、大きな鏡が現れますので、そちらまで到着したら待機してください」
「了解」
夢の中での僕の思考は、半分程度しか動いていないといっていい。これは僕の夢の中だ。すべて僕の思い通りになるかと思えば、所詮眠っている人間の脳が見る都合のいい世界でしかない。僕は僕の脳味噌にもてあそばれているにも等しい。
道路を突っ切って、記憶の中では保健室だったはずの窓に手をかける。しかし、窓を飛び越えるという動作をせず、僕はただ壁をすり抜ける要領で窓から校舎へ入った。煙のように、背後の窓は消えてしまった。僕は広い廊下に立っている。
もうここまでくると、世界はセピア色ではなく、ほぼ白一色の世界だった。鈍い灰色もところどころで浮いてみえる。だが、物体が作る影は意識することが出来た。影もやはり、白かったけれど。
インカムの案内通り、左を見ると見たことのない赤い制服を着た女が立っていた。顔はよく分からない。髪が長くて、黒いということは分かった。僕はそれを、逐一インカムに向けてしゃべる。報告というよりは、箇条書きにした項目をただ読み上げている感覚に近かった。
僕は夢の中であるのに眠気を感じて、少しだけ首を振る。
次に顎を持ち上げた時には、女の後ろに広い階段が現れていた。これは見覚えがある。間違いなく、僕が通っている校舎にある階段だ。
白い階段を上ると、踊り場に大きな姿見があった。こんなものがあった覚えはないから、僕の夢が作り出した、否、脳が勝手に作り出したものなのだろう。
鏡は僕の下半身しか写さない。上半分は、不鮮明に滲んでいてよく見えなかった。急に視界が悪くなってしまったようでもある。
僕は眉を寄せた。寄せたはずだ。自分の顔が鏡に写らないせいで確認は出来ない。
「次は?」
「背後に男が、」
「!」
僕はインカムを切った。
背後に男が立っていた。男の顔もまた、鏡には写らない。灰色の作業ツナギのようなものを着ていたが、振り返った僕はそれ以上男の情報を得ることが出来なかった。
段々、視野が狭くなる。
クソ、ここまでか。そう頭の中に思い浮かべて、僕は目を閉じた。強制的に視界が真っ暗になって、一瞬なにも見えず、なにも聞こえなくなった。
――僕は目を開けた。
先ほどまでの世界が、映像がすべて嘘だったと、夢だったと分かる瞬間的な覚醒。僕は色気のない天井と、リノリウムの床を順番に見て起きあがった。ピッ、ピッ、と規則正しい電子音が聞こえる。病院でよく見る心臓のリズムを映す機械は、黒い画面の中で真緑色の光を刻み続ける。どうやら僕はまだ死んじゃいないらしい、と安心する一方で、酷く落胆した自分がいた。何故だかは分からない。
インカムから聞こえていた声の主が、ベッドへ近づいてくる。彼女は白衣を着て、ペンとボードを持っていた。
「どうしたの?」
「……いえ」
「男が出てきたところで、あなたの声が聞こえなくなったわ。映像も途切れ始めて」
「覚醒が近かったんだと思います。鏡はありましたが、僕の顔も、男の顔も確認することが出来ませんでしたから。資格映像が不鮮明になってくるということは、覚醒が近い証拠だと教えてくださったのはあなたでしょう」
「……そうね。でも、普段よりずっと早かったわ。なにかわかったことは?」
彼女はペンのグリップを握って、なにかをボードに書き込んでいった。カルテかもしれない。実験経過を報告するため、モルモットの体調を管理するカルテ。モルモットがおかしな行動をしないか、いっそおかしな行動をしたら面白いのに、と彼女は考えてるに違いない。
僕はここにいるすべての人間に対して、疑心暗鬼になっていた。
彼女の質問に、僕は即答する。
「ありません」
「そう。……」
「なにか?」
いいえ、と彼女は笑った。特に面白いことを言ったとは思えない。彼女はいつもそうなのだ。曖昧に笑って問題を先延ばしにする傾向があった。
僕は頭についた仰々しいゴーグルと、何本ものコードを剥がしてベッドから下りた。今日の実験はもう終わりだ。夢の中を意図的に徘徊し、見るものをコントロールするこの試みは、一日に何回も出来ない。特に僕のような成熟した大人ではない――子供であるつもりもない――人間では、身体よりもまず精神にくる負担がより大きいと言われた。
そう告げたのはこの研究所を総括する男だ。
情緒不安定な時期の夢が一番研究対象になる。同時に、たった一度で崩壊してしまうかもしれないリスクをはらんでいるのだと。
彼女は部屋のドアを開けて言った。
「あなた、夢の中と現実とじゃ、態度がまるで違うわね。本当、別人みたいだわ。夢の中だとやっぱり気が大きくなってるのかしら」
「さあ。興味ないことですし、それを追求するのがあなた達の仕事なんじゃないですか」
彼女はまた、そうね、と言って笑った。
僕は部屋を出る。
***
夢の選択肢研究所