時給にして五千七百円、という大学生兼フリーターには高額にしか見えない金額のアルバイトを始めることになった。正確に言うなら、はじめて丁度一ヶ月が経つ。ただただ金額に惹かれて申し込んだアルバイトであるから、その仕事の内容なんてきちんと見ていなかったし、正直風俗以外ならなんでもよかったというのが高槻の素直な気持ちである。大学三年生、実家に帰るのは億劫で、かと言ってバーチャル世界にはまり込んで早××年、ライブでぬくもりがあってリア充ですアッハ☆みたいな生活なんて出来ない、否、心のどこかでしたくはないと思っている。つまりいくらかっこつけたところで、大学には気が向いたときしか行かないし、親のすねをかじりまくっているせいで怠けきった心と体が今更社会に飛び出していこうなんて思いつくはずもない、というのが高槻という男だった。
けれど、まさかこんな風に飛び出すが一体どこにあったかと言うと、電報ならぬ電子メール、つまり携帯電話のたった数行の文字で彼の人生がぐらぐらぐらついてしまった。『お父さんが倒れました、かえってきてください』、おいおいちょっと待ってくれよ。倒れたってどういうこと? 問いかけるべき人はアパートにおらず、震えそうになる手を押さえて実家に電話をしても誰も出ちゃくれなかった。高校二年生になる妹は自分に似ずしっかりした女子であったから(例えるならリア充ってやつだ)、その倒れた父親のそばにいるのかもしれない。
――話がそれた。とにかく、高槻が何故高額アルバイトに飛びついたかと言えば、父親が倒れたせいで実家の経済状況がほんのわずか、いやなかなかに、悪い方向へ傾き、男なんだからという理由ひとつだけで心ばかりの金銭を援助するよう頼まれた、というのがことの顛末である。就職活動というものすら将来の展望になかった彼にとって、これはかなり大きなことである。父親が倒れた、ということ以上に(病院へ行ってみた父親は、思っていたよりもずっと元気で、けれど安静が必要です、と医者は軽く言ったせいもある)少なくともこれから先の生活費くらいは己で稼いでいかなければいけないんだ、という現実に驚いた。
はじめて開くアルバイト情報誌の一番端っこに載っていたのがこの高額アルバイトだった。年齢、高校生以上。性別、問いません。週五日以上、お好きな時間に。秘密厳守の守れる方のみ募集致します。詳細は――……
それから、一ヶ月。一ヶ月だ。よくもったと自分でも思う。
高槻の人生初となるアルバイト先は小さな画廊だった。画廊というよりも、個人宅のようであり、しかし家というには人の気配が無さ過ぎて――例えるなら横浜にある外人の屋敷のような、つまり高槻のような一介の大学生が住んだことなんてあるはずもない構えの、少々日本離れしたいわゆる「お屋敷」だった。その屋敷の裏手にある、小さな別棟。そこだけだって普通に人間が住める広さと大きさだ。一戸建ての長屋みたいな、そんな大きさ。彼を迎え入れた執事(執事と表現するにぴったりすぎる老人だった。真っ黒で清潔感しかないスーツに身を包み、無駄口は一切叩かず、理路整然とした態度はまさに執事だった。日本にまだ生きていたんだと驚いた)は、その場所を「画廊で御座います」と指し示してから、華奢な銀の鍵を高槻に手渡した。
「鍵はこれひとつしか御座いませんので失くさないようご注意ください。高槻様にはこの画廊にいらっしゃいますある方のお話相手になって頂きます。お時間は一日六時間以上という契約でしたが、お好きな時に来ていただいて結構で御座います。また、六時間ずっと話し相手になれ、という事では御座いませんのでご安心くださいませ。設備は好きにお使い頂いて構いませんし、ゲストルームも御座いますからお休み頂いても結構で御座います。必ず、お帰りの際にはこちらの鍵で施錠していただくことだけお忘れなきよう」
ございますのオンパレードである。一気にそれだけ言われて、高槻はその画廊に文字通り放り込まれた。
……繰り返し、しつこいようだがこのアルバイトを始めて一ヶ月である。高槻はいい加減、ちょっと精神病んできたかな、と本気で思うようになっていた。いくらバーチャル世界と二次元と美少女を愛しているからと言って、まさか自分がこんな目に合うなんて考えていなかった、考えたこともなかった。自分はごくごく普通の、平均的すぎるにもほどがある男子大学生であり、ネバーランドに逃亡したいと思ったことも、エロゲのやり過ぎで高校生相手に発情したことだってない。事実無根だ、本当だ。
画廊でのアルバイトはとてつもなく簡単なことだった。
ひとつ、画廊の奥にいるある人物の話し相手になること。
ひとつ、決してこのことは誰にも言わないこと。
ひとつ、……これは高槻が一ヶ月を通して気づいたことだったが、それは、
「おいお前いい加減にしろよ。俺を放っておいてさっきから書いてんだ、日記か? その年で? 恥ずかしくないのか」
机に向かっていた顔を、ゆっくりと背後に向ける。そこには、大きな一枚の絵画が掛けられていた。横が1.5メートル、縦2メートルはある大きさだ。きっと自分は物凄く嫌そうな顔をしているに違いない、と高槻は断言する。
上品と贅沢を見事にマッチさせたこの小さな画廊に、絵などひとつも掛かってはいない。ただ、その画廊の一番奥の奥の部屋に掛かっているものだけが、この画廊の中で「絵」と表現できるものだ。ただし、ある一点を除いては。
「……なんだっていいだろ」
「お前は俺の話し相手なんだ。俺の方を向いてろ、なんか面白いこと言え、給料分きっちりやれよ」
ある一点。
この絵は、この絵の中の男は、生きている。
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夢に見たことを書きおこしリスペクト